昭和と平成の歴史教科書比較
新潮文庫 東大史料編纂所教授山本博文さん他
昭和47年(1972年)の「昭和の教科書」と平成18年(2006年)の「平成の教科書」を比較したもの。教科書は4年に1度ほど改定されるようで、新しい知見が取り入れられ名称や書き方が変わっているとのこと。
よく知られている話としては、聖徳太子が厩戸王とか厩戸皇子となったとか、イイクニを作ろうと覚えた鎌倉幕府成立が1185年の守護地頭設置の年になったなども、この本では説明されています。
① 「大和朝廷」という言葉が「ヤマト政権、ヤマト王権」になった
よく知られているように天皇という言葉が使われ始めたので天武朝以降であり、それ以前は天皇家も多くの王の大王という立場。朝廷というと天皇主体の政治形態という意味になり、適用される時代が狭まる。
また大和という言葉も、倭とか大倭と書いていた時代もあり、奈良の地名を表す大和を使うのは問題がある、、、よってより広範な意味を持たせてヤマト政権、ヤマト王権という言葉を使っている。
② 仁徳天皇陵は大山陵古墳になり、世界最大「規模」になった
以前はクフ王のピラミッドなどと比較して敷地面積で世界最大と記載していたが、世界を探すと新石器時代の墳墓でより規模の大きなものが現存しているため、現在では世界最大規模と記載している。
③ モンゴル襲来で「神風」が吹いたのは2回目の弘安の役のみ
弘安の役については、貴族の日記等で大風(台風)があったことは後付けられるが、最初の文永の役は旧暦の10月20日、新暦だと11月26日で台風シーズンから外れ、同時代資料で大風の歴史的記載がなく、のちの時代に混用されたものとされている。
④ 長篠の戦で鉄砲三千丁も三段打ちもなかったが、武田騎馬隊もなかった
そもそも日本馬は体高120㎝程度のポニーの大きさであり、同時代の西洋人の書き物にも、移動時は馬に乗るが戦闘になると馬から降りて戦うなどの記載があり、騎馬隊という言葉から連想されるような騎馬による突撃シーンはなかった。
⑤ 士農工商はなかった
江戸時代後期の儒学者たちの主張で作られた言葉で、実体的に身分は固定されていなかったし、職業による上下関係はなかった。侍の身分は株として売買され富裕な農家や商人が次男三男のために株を買っていた。農村の百姓が江戸等に出てくれば町人として登録された。そもそも、農村社会では農家の副業として鍛冶屋が営まれ、大工も木こりも専業者はいたものの、職業としては流動的だった。
⑥ 踏絵ではなく絵踏になった
歴史学の世界では実は、かなり前から混乱が指摘されていた。正確には踏絵を使って絵踏みを行ったわけで、絵踏という言葉も江戸時代からあったもの。
⑦ 鎖国という言葉は使われなくなった
江戸時代からも「4つの口」として、薩摩が琉球、対馬が朝鮮、松前がエゾと、出島以外で、東アジアとの交易は開かれており、鎖国という言葉そのものがナンセンスらしい。
⑧ 岩倉使節団は不平等条約改正を目指したけど、、、
アメリカに行って条約改正をしようとしたところ、全権委任状がないとして相手にされず、急遽、大久保と伊藤が帰国して委任状を取りに戻る始末。両名が戻ってくる間に、残った人たちが見聞した結果から、日本が弱小のまま交渉しても、米国から別の譲歩を迫られ、最恵国待遇を与えた英仏など他国にその条項が適用され、かえって不利になると判断、改正の希望を伝えるだけに目標変更したとのこと。
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。