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奴隷解放宣言

 『南北戦争の激烈な戦いが3年目に突入したとき、エイブラハム・リンカーン大統領は連邦軍の兵士たちに新たな戦争を意味する決定を下した。1863年1月1日、リンカーンは奴隷解放宣言に署名、それは合衆国に公然と反旗を翻している州の奴隷たちを解放する効果があった。』


 American Center資料での、奴隷解放宣言について書かれてある冒頭の言葉です。


 私今まで大きな誤解をしていました。リンカーンによって行われた奴隷解放宣言は、アメリカの奴隷制度を廃止するというものと思っていましたが、そうではなさそうです。


 『』書きにありますが、「合衆国に公然と反旗を翻している州の奴隷たちを解放する効果」とあります。


 南北戦争開戦当時、アメリカ諸州は「奴隷州」と「自由州」に分かれていました。
 1860年11月の大統領選挙で奴隷廃止をうったえていたリンカーンが大統領に当選すると、南部の奴隷州が合衆国からの離脱独立を宣言し、当初7州でアメリカ連合国を宣言、その後、南北戦争開戦時までに4州が連合国に加わって11州が、アメリカ合衆国から独立を企てました。


 南北戦争はアメリカ合衆国とアメリカ連合国の戦争で、合衆国側から見れば内戦、連合国側から見れば対外戦争でした。


 南北戦争が3年目に突入し、戦線が膠着してしまったので、南部諸州に対する恫喝というか、降伏を促すという趣旨のもとに出されたのが、この解放宣言だったようです。


 内容は、合衆国に反抗的な南軍兵士が保持する奴隷を解放するというものであって、合衆国に残った、すなわち北軍側の「奴隷州」の奴隷まで解放するという意味ではなかったようです。リンカーンとしてはアメリカ全土での奴隷廃止を目指していたものの、北軍側の「奴隷州」を刺激したくなかったようです。


 奴隷解放宣言を素直に読めば、北軍に戦わずに降伏するなり、州として合衆国に復帰すれば、奴隷解放する必要がない、、、とも読み取れます。


 奴隷解放がそのような宙ぶらりんの形だったため、1864年の大統領選挙でリンカーンは奴隷廃止に向けての憲法修正を公約に掲げ、選挙に勝った直後、アメリカ合衆国の全ての奴隷を解放する憲法修正条項が成立、憲法の上では、すべての奴隷は解放される形にはなりました。


 実際には1963年のケネディ暗殺を経て翌64年に人種差別をうたった公民権法が制定されるまでの100年間、元奴隷たちその子孫に対しての差別は、法律上残ったわけではあります。


 付け足しとして、
 リンカーンは共和党の候補として最初に大統領選に出馬した人です。
 当時、北部が共和党の地盤で、南部で奴隷制を擁護したのが民主党でした。


 いま、北部は民主党の地盤。
 テキサスなどアメリカ連合国に参集して南軍として戦った地域は共和党の地盤。
 
 調べてみると共和党が変わったというより、民主党が大きく変わったようです。