足利15代
徳川将軍が15代続いた,,,というのは徳川慶喜が大政奉還したとか、その前に家茂が公武合体で天皇から妻をめとったという各将軍ごとの逸話で何となく繋がって覚えています。
もちろん間の家綱とか家重が何やったかは?ながら、続く将軍の逸話でその前の将軍という程度には頭の中で繋がります。
では足利15代は?
足利将軍の悲運は、建武体制で時の天皇を配流したということで、戦前は皇国史観のもとで「足利=逆賊」として歴史家が研究してこなかったこともあり、軍記物的な通説が幅を利かせ、それが歴史事実として教育されてきた,,,という事だと思います。
例えば、応仁の乱。
これってまだ多くの人が、日野富子が自分の産んだ男子を将軍にしようとして内紛が生じた,,,っていうことを歴史的事実として思い込んでいる人が多いんじゃないでしょうか?
これも江戸明治の「女が政治に口出すと碌なことはない」という男尊女卑で作られた物語ですよね、、、
この足利15代の系図。
昨日段階までだと、
初代から7代義勝、その後、
8代義政
9代義尚
10代義稙(よしたね)
11代義澄
くらいまでは自分の頭の中で繋がっていました。
というのも、
ここまでは足利将軍家の家長である足利将軍あるいは将軍職を譲った大御所と、それを支える管領家、主として細川家嫡流がしっかりしていて、前半は足利将軍家が自ら将軍を決め、後半は細川管領家嫡流が自分の親分を挿げ替える,,,という歴史だからです。
今日は、終日、動画転送サイトと格闘していて、パタヤ自宅のネット環境が劣悪だからなんですが、7-8回、動画のアップロードに失敗して、出来る限りネットに負荷を掛けないようにと、パソコン作業は止めて本を読む生活。
11代義澄以降は、管領細川家が内部で嫡流⇔分家間で争って、力を得た分家筋の細川家が擁立する人物が足利将軍になり、管領が変わると将軍の流れも変わるという時代になります。
細川家が内部対立している原因は、細川の分家の家来たちの主導権争いであり、最終的に第13代義輝は細川の分家の家臣である三好氏に殺され、今の研究者たちは「三好政権」が出来て、それを引き継いだのが織田信長であると考えているようです。
足利将軍としての流れは、
上のに書き足すと、
10代義稙
11代義澄
(10代義稙が復権)
12代義晴
13代義輝
歴史的にはここで足利幕府は終焉を迎えます。
そして、
14代義維が1年間、名前だけの将軍になり、
15代義昭 この人物は織田信長に擁立されて将軍になったものの、自分の立場を考えずに最後まで「自分は将軍なのだ」という夢見心地で周りを混乱させた人でした、、、
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