タイランド湾を見て暮らす・パタヤコージーライフ

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最近理解した武家社会

① なぜ征夷大将軍なのか?
 源頼朝といえば征夷大将軍ですが、実は右大将にも任じられていて、後には先右大将家(さきのうだいしょうけ)と呼ばれるようになっていきます。
 右大将に任じられたのは頼朝が京都に上洛した際ですが、鎌倉に帰る際に右大将を辞しています。


 征夷大将軍という役は令外官と呼ばれるもので、天皇から任じられた役職ではありますが、京都に在住する必要のない役とされています。逆に右大将は律令制に基づいた役職で基本的に京都に居して天皇身辺を警護する役職です。


 征夷大将軍は京から派遣され地方で夷狄を平らげるのが職務ですから、在京を前提としていません。鎌倉で政務を取りたい頼朝としては右大将よりも征夷大将軍の方が都合がよいわけです。
 しかし役職上は右大将>征夷大将軍なので、京都滞在中の役職でありながら頼朝は先右大将と呼ばれることになります。


 江戸幕府を開いた徳川もなぜ征夷大将軍を望んだかといえば、江戸で政務を執りたかったからということになります。


② 武家の官途名(かんどめい)
 律令制に基づく○○守、○○大夫、○○介などという官途名を、室町以降に武士が名乗っていきますが、これって誰が認めたの?と疑問に思っていました。
 また同じ時期に同じ官途名を名乗る武士が複数いて、これまた混乱するばかり。


 結論から言うと、公家の官途名は厳格に公家社会で管理されたが、武士が名乗る官途名は、幕府から申請がありそれなりの上納金があれば許可されるが、それは公家の公式記録には残さないという形で乱造されたようです。


 また幕府を通すのは大名or幕府直臣までで、地方の国人レベルの官途名はその地の守護が家格や論功で与えていたとのこと。


 面白いお話として、大内氏が左京大夫(今の役職でいえば首都警備の警視総監)に任じられると、対抗する九州の大名が家格的に我家も同格以上と競って左京大夫を名乗ったようです。

中世武家官位サミット|たかが官位、されど官位【オールナイト幕府 73】 - YouTube
③ 守護/守護代
 例えば山名氏は六分一殿と呼ばれ、全国の1/6の守護職を独占しましたが、山名氏は自分の「領国」としてどこに居住したのか?と疑問に思っていました。


 守護というと守護大名という感じで、地方に居住したように思っていましたが、基本的に守護は中央官庁の役職で、守護たちは鎌倉時代であれば鎌倉に、室町時代には京都に居住したようです。


 では守護としての仕事をどうこなしていたかといえば、家臣を守護代として地方に派遣していたようで、一国単位の場合もあれば、半国単位、あるいは郡単位に守護代を置いたようです。
 わかりずらいのは家臣といっても同じ苗字を名乗る分家筋を派遣する場合もあり、また守護代職は世襲される場合がほとんどなので、本来の守護と同じ苗字の地方に土着するので一見、守護が地方に定住しているように見えてしまいます。


 守護は京と在住が前提なのですが、応仁の乱以降、地方が乱れ始め地方からの収入を確保するために守護たちは自分の守護地に下っていきます。


 室町末期の室町将軍は、各地の守護に対して上洛するように何度も何度も命じます。
 有名なのは越前朝倉に対してとか、甲斐武田に対して命じていて、実際に信玄はその上洛命令を奉じて京に向かうわけです。それは守護が本来、京都在勤だったのでその状態に戻れと指示だけといえばそれだけのことなのです。


厳島合戦
 毛利元就が陶晴賢を破った厳島合戦ですが、なぜ厳島なのか不思議でした。厳島なんて神社があるだけだろう、、、と思っていました。


 厳島は厳島神社があり、厳島神主家という神社本体の家と、厳島神領衆という神社に付き従う集団があったようです。
 厳島は神社があったからというより、瀬戸内海の要衝で一つには海賊の本拠地であり交易の拠点だったようで、その利権を握っているのが神主家、家来筋が神領衆のようです。


 島という狭い土地ながら船による移動の便を考え、また厳島の富を確保するためにも、陶晴賢としては厳島を抑える必要があり、厳島に対陣したということのようです。 

新説・厳島の戦い~創られた奇襲戦~ - YouTube