誓教寺 葛飾北斎の墓
「今日は北斎の命日」とSNSにありますが、見たのは一日遅れでした。
ただし寺に向かった時点では「今日が命日」と思っていて、参拝客多数だろうし、
その人たちの後をついていけば迷わないはずと思った浅はかさ。実際は結構迷いました。
ホテルを出て浅草通りを上野方面へ。左衛門橋通りを左折。
看板を見ている図ですが、背にしている通りが左衛門橋通り。
通り挟んで向かい側は東京大空襲で焼け残ったが、こちらはダメだったというのは住職。
御年75歳という住職でも、年齢を考えれば当然、その場にはいないわけです。
マア地元ではこうやって、太平洋戦争、東京大空襲を伝承していくのでしょう。
結果的にこの誓教寺は大空襲で焼け野原の一部に、お墓も被災したとのこと。
左)畫狂老人卍墓
右)辞世の句
ひと魂でゆく気散じや夏の原(死んだら人魂となって夏の原を気ままに行こう)
墓そのものは欠けたり割れたりしていますが、つなぎ合わせて原型を保っています。
周りは比較的新しい墓石群。
その中に、この墓石があり、墓域改装で場所は何度か動いたのでしょうね。
なんそういんきえいほくさいこじ
「そう」はかまどの煙を出す小さな穴のことと住職。
まさに昨日が命日だったので、昨日備えた卒塔婆。
左)生誕200年碑 富士山に北斎。生誕200年に建立されたものとのこと。
右)富士山の方を見ている像
近くに歌麿、広重の墓もあったが今は移転とのこと。
同じ浄土宗の源空寺(拙ホテルの裏)には谷文晁、幡随院長兵衛、伊能忠敬などの墓があ
り、当寺は都指定だがあちらは国指定と、住職の持ちネタなのか何度か繰り返されました
75歳の時に、90まで頑張るぞと彫られた碑文であるとのこと。
住職の話では当時のものという。
もうちょっと彫りが深ければ判読も容易だったろうにと。
たしかに、昭和大正の新しいものには見えず、多少年代が手前に来たとして、
江戸時代に、こういう石碑が残せたのも凄いこと
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