タイランド湾を見て暮らす・パタヤコージーライフ

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藤原隆家

 藤原隆家に対するイメージは、
① 悲運の坊ちゃん
② 叔父さんに虐められる
③ 家族が悲惨な目に会う
 というもの。


 多分これらの多くは、清少納言のバイアスが入っている感じがします。


 摂政関白藤原道隆の次男で、中宮定子の兄、伊周の弟。叔父に栄華を極めた藤原道長。
① 絶大な権力を自分の家に集めようとした父道隆が糖尿病で死亡。早々に庇護を失う。
② 父親道隆の後、摂政関白となった道長と、道隆の残した中関白家の当主となった伊周の闘争のなか、中関白家の没落。
③ 兄伊周の流罪、中宮定子の産んだ親王は皇太子になれず幼くして死亡、定子も亡くなり、そして自らも望んだ形で大宰権帥(九州へ都落ち)という「左遷」


 中宮定子と道長の娘彰氏は天皇の寵愛をめぐって競い合う立場だったし(本人がどう思っていたかは別として)、その代理戦争という形で清少納言と紫式部がいて、エッセイという形でダイレクトな気持ちが残っている清少納言の「証言」を古典という形で学ぶ経過の中で、定子の兄である隆家に対するイメージが出来ていったのかな、、、と思います。


 前振り長くなりましたが、隆家が九州大宰府で陣頭指揮をとって対応したのが「刀伊の入寇」です。刀伊は東夷(トウイ)の当て字で、朝鮮北方の女真族のこと。女真族の兵士が国王の指示で、高麗、対馬、壱岐、筑前と海賊行為を行ったことを「刀伊の入寇」と言います。


 やっていることは海賊行為で、記録によれば529人の人たちが連れ去られたとのこと。奴隷の売買市場があったようです。悲惨なお話としては、連れさらって朝鮮方向に戻ったわけですが、そこでも拉致を行い、船の長旅で衰弱した人たちは入れ替えで容赦なく海に捨てられたとのこと。


 モンゴルが攻めてきた元寇は歴史で習いますが、実際には、新羅来襲が9世紀にあり、刀伊の入寇が11世紀、元寇は13世紀と、日本は3回、朝鮮半島からの侵略を受けています。
 民間レベルの「海賊来襲」はたびたびあったようですが、外国が国として日本に攻めてきたのはこの3回です。


 隆家は兄伊周と花山法皇の輿に矢を射、その矢は法皇の衣を射抜いたという事件を起こした「乱暴者」ですが、それゆえか、突発事象である軍事行動の総大将として人望があったようで、現地大宰府の兵や周辺武士団を上手く組織し、撃退しましたし、その戦後処理についても適切に行っています。


 面白いというか、昔からだな、、、と思ったのは、論功行賞の件です。
 刀伊が攻めてきたという一報は京都の朝廷に伝えられ、上を下への大騒ぎになり、打ち払えと指示が出たわけですが、その指示が現地に到着する前に現地での戦闘が終わっていました。それを聞いた京都の公家たちは「指示が伝わる前に現地が勝手に処理したのだから褒賞は必要ない」と喧々諤々の議論が続いたとか。


 海防の重要性を考えた朝廷は、その後、山陰から九州西岸諸国の国司には、武勇を誇る公家を派遣するようになったようです。同じことは将門の乱があった東国にも配慮され、それが後々、京都から下った公家と地元豪族が結びつき、源氏平氏等の武家貴族の成立に繫がったとのこと。


 一連のやり取りは、時の最高権力者である道長に逐一報告され、公卿藤原実資の日記-「小右記」に詳細が残っており、現在、我々もそれを読むことができます。

 

 小右記を読んでみたいと思いましたが、膨大でちょっと手に負えそうになかったので、同時代の記録である藤原行成の「権記」をamazonでポチリ。