タイランド湾を見て暮らす・パタヤコージーライフ

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タイ国内旅行13 メーホンソンミャンマー国境の旅⑱

パーイ・メモリアルブリッジ
 「第2次世界大戦中の1942年、日本軍がチェンマイからビルマへの物資輸送ルートとして建設した鉄道の、パーイ川にかかる鉄橋。橋のふもとに建てられた看板には、当時パーイで生活していた多くの人が橋の建設に動員させられたなどの悲しい出来事が記されています。」(タイ観光庁)
 現地での結果
①物資輸送ルートとして建設した「鉄道」→「道路」
②現鉄橋は日本軍とは無関係。日本軍は木橋を架けた
③「動員させられたなどの悲しい出来事」→日本軍撤退時に苦労して架けた橋を焼き落としたこと
④チェンマイ市Nawarat Bridgeの転用品のように思われる
⑤現橋はUSスチール社造1930年製。転用された跡がある。

第二次世界大戦記念橋 この名前がいろいろと誤解を生む種

()書きは地名を表し、ター・パーイと書いてあり、意味は「パーイの渡し場」、日本軍が来る前から道そのものはここを通っており、人々は川を船で渡っていたということだと思います

様々な橋が直列につながっていて、順にパーイ側から。一番手前は多分、第二次世界大戦頃以降に使われた米軍?の仮設僑。同様の仮橋を新東名の現場でも見たことがあります

ここから先、スパンごと形式が順次変わりますが、ほぼ同様の取り合い、部材構成になっているので、同一時代に製造された橋であると思われます

トラス形状が順次変わりますが、後ほど述べますが、米国製の橋梁であり、スパンごとの標準設計に従って、作られた感じがします

主径間部。人と比べるとわかりますが、一番最後に、床材を張り替えたときは、車両用ではなくバイク/人道橋として、床を張ったように思われます

パーイはチェンマイとメーホンソンの中継地で、バイクで行くとちょうどよい中間宿泊地となっていて、欧米系観光客で賑わっています。
 街から10㎞、パーイを根城にショートトリップで来るには手ごろな観光地です。
 カンチャナブリの鉄橋と同じイメージで、第二次世界大戦記念と銘打てば、欧米系に好まれるという変な下心があるのかも

鉄鋼王カーネギーの会社ですね

Forced villagers to workとありますが、書き方ですよね。クンユアムだと日当を払ったわけですし、タイ政府としても表面上は、人員の提供を認めたわけですがね。
 問題は、1945(画面では1946)年に、日本軍が去り、その際に橋を焼き落としたということ。そして村人たちにとって、交通手段が断たれ、不便になったということ。
 冷静に考えて、敗戦後、橋を焼き落としてまで撤退しただろうかとは、素直な疑問。

肝心なところが破けて見えませんが、、、、
 総合的に勘案すると、
①1960年代にこの道路が一時改良された(As舗装なし)、、、別途、英文資料
②この段階でも橋は再架橋されていない
③1967年、チェンマイ市内のNawarat橋が架替られた
④パイ市民はチェンマイ県に願い出て、、、、(多分旧橋材料の提供を願い出た)
となるのではないかと思われます

日本軍が架けたのはこの橋だと思われます。
大戦末期、たかが道路橋に鋼橋を架けるなどということはないと思われます

日本軍の建設した道路と言っても、この程度なんでしょうね。現在の道路も随分と勾配が急なところがあり、地元の人たちは、こんな感じで人力で押し上げたのでしょうね

どの人物が日本軍人なのかは?

この写真撮影がなされた段階では、トラックの車輪位置に板が渡されていますし、コンクリート橋はありませんので、道路橋として架設供用されたようです。

1連目の細部
クランプで締め上げて固定するようです、、、用が済めば直ぐばらせる

多分幅員に応じて、主桁1枚の場合もあれば、2枚重ねて使用する場合もあります。
全体的に、溶接で組まれていますから、ベトナム戦争のころのもののようです

これから先、主径間部も含め、全ての格点部はリベットとボルトを共用しています。
 古い橋をばらす際、転用を考えて、添接板も含め再利用できるようにしたものと思われます

これもそうですね。弦材側のリベットは切除したようです

現在の国道橋。どっかの国のODAでしょうか。調べ切れませんでしたが、80年代以降に、架設されたように思われます

いかだ下り
ファラン客を呼び込むためにも、第二次世界大戦記念は大切な謳い文句