タイランド湾を見て暮らす・パタヤコージーライフ

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戦場に架ける橋は二つあった 個人的決着

 数年前からの個人的懸案であった「戦場に架ける橋」に結論が出たようなので以下に取りまとめます。

 タイとビルマを繋ぐ泰緬鉄道は日本軍の戦略を実現する上で重要な鉄道でした。
 写真は戦場に架ける橋、いわゆるクワイ川橋の写真ですが、最初この写真を見て??だったのが、右手に架かる橋は現在でも観光名所になっている「デス・レイルロードの橋」。
 欧米では泰緬鉄道を日本軍の捕虜虐待の象徴、デス・レイルロード、死の鉄道と呼んでいます。


 奥の鉄道トラス橋は河川中央部で落橋しています。イギリス軍の空爆で落とされました。
 では手前側の木製橋梁は? 考えられるのは、
① 鋼製鉄道橋が破壊されたため、戦争中あるいは戦後に仮設橋として架橋された
② 鋼製鉄道橋建設に時間を要したので、別途木製の仮橋が架橋された


 泰緬鉄道は戦後、捕虜となった日本軍兵士により撤去されたので戦後の橋ではありえません。泰緬鉄道建設誌を読んでもこの木製橋梁の記載は見当たりません。


 完工直後と思われるクワイ川橋梁。
 泰緬鉄道建設誌を読んでも、実際に、クワイ川橋が完成したことは事実。


 円弧状の鋼製アーチが並んでいます。
 なお現存するクワイ川橋は、川の中央部、ちょうど爆撃で落とされた3連の桁は、橋脚を真ん中に立てて2連の桁で作り換えられています。

 以前に入手したクワイ川橋前後の航空写真。
 2本の橋が架けられていることはわかります。
 2本のうち上にある線路はほぼ現況の線路に重なるので、こちらが現存する鉄道線であることだけはわかります。
 下側の線路?は現在の鉄道線形に比べるとショートカットした形で、急造線のような感じがあります。


 ただし何分、ぼやけた写真なので、線路線形がわかる程度のもの。謎が深まるばかり。

 数日前にSNSに流れてきた写真。


 非常にくっきりとした写真で、二つの橋が健全な形で並んでいる写真です。
 これを見ると、前記①の本橋梁爆撃後の仮橋という説は打ち消され、木製橋梁は本橋梁破壊の前か同時に架設されていたことが推察できます。


 泰緬鉄道はイギリス軍の空爆を受けても復旧作業が行われ、鉄道輸送が完全に停止することはなかったという記述がwikiにあり、本橋の落橋後も木橋は補修などが加えられ、泰緬鉄道輸送の一助になったのだと思われます。

 前記の写真を天地逆にしました。
① 橋脚が等間隔で並んでいて、現在より橋脚が1本多いので、爆撃前のクワイ川橋です
② 左手陸上部に狭い間隔で橋脚の影が写っています。現在もこの部分は河川部から離れますが、高架構造になっています。
③ 四角く囲った何らかの敷地が見えます。中心に黒い搭のような影が見えます。これは日本軍鉄道隊が建設した通称カンチャナブリ慰霊塔だと思われます。 

 クワイ川橋は戦後、日本の戦後補償で爆撃で落橋した部分を再架橋されています。
 多分その際に、洪水被害を受けると思われる低地部高架部を鋼橋で作り替えたものと思われます。

 日本軍鉄道隊により1944年2月(=戦争中)に作られた、泰緬鉄道建設での殉職者の慰霊塔です。日本人、タイ人、ビルマ人、そして戦争捕虜の方、すべてが祀られています。


 戦後行われた極東裁判で、ビルマ方面軍司令官や東条首相が死刑判決を受けています。
 司令官は建設指示者として、東条英機首相は「働かぬもの食うべからず」と捕虜の強制労働を指示したというのが主要な判決理由になっているようです。
 (戦争を起こした、、、ということ自体は、判決理由になっていないようです)


 ちなみにこの慰霊碑を建てたということもあって、鉄道隊隊長の佐々木大佐は戦犯を免れています。もともと佐々木大佐は東大工学部卒のエンジニアで、根っからの軍人ではなかったようです。 

 ということで、Googleマップの衛星写真と比べるとこんな感じになります。
 川岸の形状や現在に残る道路などもほぼ重なります。