土屋主税
歌舞伎をご存じの方には見慣れた名前です。
土屋主税は、忠臣蔵で敵役となった上野介の隣家の旗本といわれ、陰に陽に赤穂浪士たちを支援したとされる人物。
NHKはパタヤでは視聴できません。
「家康どうする」では特に描かれることもなく、武田家が滅亡したようですが、その武田家滅亡の瞬間まで、武田側忠臣として活躍した土屋 昌恒(つちや まさつね)がいました。
史実は不明ですが、
・武田勝頼、嫡子信勝の介錯をしたという説
・勝頼が自害できるように、崖道で片手にツタを持って崖から落ちないようにしつつ、片手で寄せ手と戦い続けたことにより「片手千人切り」と称されたという説
などがあり、いずれにしても勇猛忠臣の士であったとされています。
会社員生活の頃、土屋さんという先輩がいて、甲斐武田の勢力範囲のご出身だったので、土屋という名前にひかれてちょっと調べました。
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土屋 昌恒の嫡男土屋忠直は武田家滅亡の後、家康に忠誠を誓い、後に家康側室の阿茶局により養育された後、上総久留里藩の大名となったようです。
家康としても、戦いの相手であった武田の家臣とはいえ、勇猛果敢/忠臣であった家系を残したいと考えたようです。
その後土屋家は4代目で狂気を理由に大名家としては改易。
土屋家の名を惜しんだ幕府は4代目嫡男土屋逵直(つちや みちなお)を旗本として家名存続。幕臣として着々と昇進し、元禄6年に無役(引退)、住まいは本所松坂町であったようで、風流旗本として俳諧の宝井其角に師事し、時折自邸で連句の会を催したとも。
この土屋逵直の通称が主税。
元禄14年、赤穂浪士の討ち入りの際、遠戚に当たる老中土屋政直に討ち入りの急報を伝えたのも土屋逵直/主税。幕府に「火事装束で30-50人」と伝えたようです。
土屋主税役は先代猿之助。
討ち入りは様々な小説の題材になったため、虚実入り乱れているようで、例えば、上野介宅とは塀を接しての隣家ではなく通路が間に挟まっていたため、高張提灯を掲げて浪士たちの照明の便に供したようなことはなかったようです。
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